皆さんは、もし、法律で五人までなら殺してもいいと、五発弾の入った拳銃があったらどうしますか?
殺す?殺さない?
殺す場合、誰を殺すかが重要になってきますよね。許せない人?大切な人?どうでもいい人?それとも自分?
五発の弾を全部あなたは使い切るでしょうか?それとも、使い切らずにいざという時に持っているでしょうか?
そんなことがとても気になる今日この頃。
五人までなら殺せる、としたら、わたしはとても慎重になると思う。なんせ弾は五発しかない、銃の弾が先に切れた場合はナイフや鈍器もOKにしましょう。
とりあえず五人、五人であることが重要な気がしてならない。
きっとわたしは、自分自身を殺さない。
殺されることを待つ。それまで罪悪感もろもろでどれだけ死にたくなっても、自分だけは殺してあげない。別にMではないんですが、人を殺しておいて、さっさとこの世からおさらばなんて、なんだか虫が良すぎる気がしてできないと思う。それなら、最初の一発目で自分を殺してしまうだろうなあ、と。
本当に誰かを殺すとしたら、リストアップから始める。ノートに書き出し、あーでもないこーでもないと書き足したり消したりするんだと思う。
そう、どう殺すかも重要になってくる。弾は五発、しかし、別に一人一発という決まりはない。ナイフや鈍器で殺してもいいのだから。銃やナイフは、苦しんで死んでもらうこともできる。殺す最中に早く殺してくれと言うかもしれない。それを時間を潰しながら眺めて、失血死させることだってできる。たしか人間は全体の2割の血液が外に流れ出たら死ぬんでしたっけ?その血液だって、体内の水分量よりとても少ない。人は簡単に死んでしまうし、簡単に殺されてしまう。
人間の死にやすさは、まあ、いいんです。
あなたは殺しますか?殺しませんか?
という質問です。
好奇心のみで殺してしまう人もいるかもしれない。憎悪にまみれた殺しもあるかもしれない。いつ自分自身も最後の晩餐になるのかわからない。五人殺したとして、天寿を全うできるかもわからない。
そんなわたしは五人殺して、生きて罪悪感と死にたさに苛まれつつ、ようやく少し幸せが見えてきたところで殺されたいですね。
「今まで何人殺した?」
「ん?わたしは三人」
なんで会話が日常会話に組み込まれたらと思うと、恐ろしく感じるけれど、人間は現状に慣れる生き物で、それが普通になんだろう。
俺はこうして殺してやった!
なんて自慢をする人も出てくるかもしれない。
そんなことを考えたりした、今日この頃